MAN会報
夏の思い出
栄光時計株式会社 会長 小谷 年司

 子供の頃から、大学生のころまで夏休みというと無限の長さと思へました。読書の予定目録を作り、学習計画を立てる。小さいときでも、大きくなってからでも、夏休み前の企ては年相応に壮大です。しかし、八月の終わり、つくつくぼうしが泣き出す頃になると、大きな夢は小さくすぼんでしまうのが常でした。
 あの頃は、冷房装置もなく、天神祭の始まる頃、うだるような大阪の暑さにうんざりして、油蝉がジイジイやかましいのをきくやいなや、勉強は放棄、海水浴に誘われると、喜んで出かけ、甲子園の高校野球に行こうというと、雀踊りして付き合いました。父は根っからの商人でしたから、夏休みに休暇を取って、別荘に行くことはありませんでした。不思議に友人たちもそんな夏休みをすごしている階層はいませんでした。幸い父の友が、瀬戸内海の松山に近い小さな島の出身で、忙しい大阪の町医でしたが、お盆休みに毎年、帰省の度に、娘だけ三人の子供達だけではさびしいと、同じような年代の知り合いの男の子と一緒に連れて行ってくれました。これまた、懐かしい思い出です。小柳ルミ子の「瀬戸は日暮れて」というメロデイーをきくと、小学生から大学生に至るまで、盆休みを過ごした島の光景が脳裏によみがえります。対岸の島との間を走る早い潮流、下手に君達で船を漕いで渡っては危ないからと、子供等で舟を出すのを厳しく止められました、和船の櫂の使い方を憶えると、子供たちはすぐに冒険をしたがります。泳ぐなら、波止場の中が海底まで透き通ってみえるプールでした。水着をつけて足の裏が日に焼けた舗装の道のあついのを爪先立ちで歩けば、家から二、三分です。美しい砂浜も近くにありました。本土の柳井港から一日一回の連絡船が三時間ばかりかかって到着すると、沖合にとまり、乗客の送迎に小舟が往復します。村中の人が総出で見物です。まるで寅さんの世界でした。裏山に上がるとミカンがまだ青い実を沢山つけていました。山上から海越しのはるか向こうに四国の山陰が見えました。
 元気が良いと、漁師さんの船で、魚つりに、漁場をめざして出かけます。釣りといっても、子供たちが釣れるのはベラとか小さな鰺とかで、深いところにいる鯛なんか、鉤にかかりません。鉤先に餌をつけた糸をそのまま海へ垂らす。ごく単純な釣り。飽いてくると、ふなべりから海へ飛び込んで、おいてきぼりにされないかとこはごはあたりを泳ぎます。飯時になると、漁師さんが、釣り上げた鰺をさばいて、身を細く切り、炊き込みご飯を、醤油だけで味をつけ、船上で作ってくれます。その無情の美味しさが今でも忘れられません。魚釣りは下手で、苦手でしたが、こりもせず、ついていったのは、この船上の鰺めしのためでした。単に魚の引きを長い間待っている、釣り好きの人の心情は今でも理解できません。午後のおやつに出てくる水瓜も、大きな楽しみでした。井戸から冷えた水瓜が上がってくる。子供達は立ったり、かがんだりして、眺めている。誰かが、木刀みたいなもので叩き割る。子供は大きな切れをめざして我勝ちに手を出す。食べるのの早いこと早いこと、種を吐き出しながら、あんなに早く食べられる子供がいるとは。今でも水瓜を食べるたびに、スピードコンプレックスにおそわれます。そして、あの時の水瓜が人生で一番甘かったと思います。こんな風に一週間はすごすのですが、まるで、夜になって縁台に浴衣姿で腰かけてマッチでつける線香花火のように、早く、あっけなく、日々は過ぎ去り、暑い大阪へもどるのでした。カバン一杯につめた宿題の山が手つかずなのは当然です。学校のも、自分に課したのも。
 もう六十年近く前の夏休みのお話ですが、よく考えてみると、この長い六十年の歳月も、楽しくて、短くて、空しかった夏休みと変わらないかかなという気がします。沢山の宿題を自分に課したが、何一つ、出来たと人に差し出せるものはありません。それを悔やむ一方、できたからといって、自分がよく知っている、自分の能力の中での仕事で、一体それがどうなのだという気にもなります。
 今年の夏の初めは、その総代の一員になっている近江神宮で総代会に出席した帰り、隣の三井寺に行き、フェノロサの墓に参ってきました。山の上の法明院という今は荒れた塔頭の庭にあり、苔むし、訪ねる人も少ないようです。
 フェノロサはハーヴァード出身の学者で、明治十二年来日、東大で哲学を教えているうちに日本美術の美しさに取り憑かれて、文部省に働きかけ、東京芸術学校(現藝大)を創設するのに協力した人です。初代の校長が愛弟子の岡倉天心でした。
 天心の話をしだすと、キリがなくなるので、一言で言えば彼は、偉大なロマンチストでした。アニタ・ブルックナーという英国の現代女流作家はロマンチストを定義して、目到着するよりも、むしろ、到着をのぞみつつ行く道中の方を好む旅人みたいなものだと、うまいこと言っています。まるで、自分のことをいってくれているみたいだなと思いました。天心は、死の一年前にインドである女性に出会い、大いに魅かれるところがありました。しばらくして帰国した天心は彼女に日本から美しい恋文を十数通、死ぬ寸前まで送り続けます。成就するどころか再会すらもかなはないのを覚悟した愛の告白です。その最後の手紙に同封した詩を引用します。

 私が死んだら、
 悲しみの鐘をならすな、旗をたてるな。
 人里遠い岸辺、つもる松葉の下ふかく、
 ひっそりと埋めてくれ ー
     あのひとの詩を私の胸に置いて。
 私の挽歌は鴎らにうたわせよ。
 もし碑をたてねばならぬとなら、
 いささかの水仙と、
     たぐいまれな芳香を放つ一本の梅を
 さいわいにして、はるか遠い日、
     海もほのかに白む一夜
 甘美な月の光をふむ、
 あのひとの足音の聞こえることもあるだろう
 一九一三年八月一日

 御礼に、楽しい夏の思い出を送るつもりでしたが、老人くさいはなしになってしまいました。でも、生きている間は生きているのです。いま眼下ににひろがる光景も長くみることはないかも知れないとうすうす感じていても。
 どうか健やかで楽しい夏の終わりの日々をお送り下さい。
平成二十六年夏


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