MAN会報
長岡への旅
理事 吉富 康二

 平成26年5月高校の友人で米国の社会学の元教授と家内の3人で、新潟県の長岡を訪問した。目的は長岡出身の河井継之助、山本五十六の記念館訪問と墓参である。継之助は司馬遼太郎の著書「峠」で登場する主人公。
 彼は中流の長岡藩士から幕末動乱の時代に筆頭家老まで上り詰め、薩長の官軍、会津の幕軍にも組みせず、小藩ながら様々な改革を断行、新しい軍制、近代的武装を整え独立公国を目指す。「戦はしてはならんでや!」が大方針であったが、北越に攻めのぼる官軍との談判で嘆願書の受理さえ断られる侮りを受け、談判決裂。結局、戊辰戦役で最も凄惨な北越戦争に長岡藩と住民を巻き込み、本人もその戦いの中で倒れる悲劇が待っていた。
 司馬氏は継之助を日本の最後の「武士(サムライ)」として描き、彼が行動の原点とした陽明学の「知行合一(知識は持つだけではだめだ、行動を起こしてこそ意義を持つ)」の言葉は青年時代の小生に強烈な印象を与えた。
また、継之助と福沢諭吉とのたった三日間の問答は何度読んでも、我が胸底に響いてくる。
 ところで、継之助より家柄では数段上の家老山本帯刀は継之助の部下の大隊長として奮戦力闘、最後は官軍に捕われるが「我降伏せず」と斬られて死ぬ。山本家が断絶したため後年、高野五十六が養子となり山本五十六となる。説明するまでもなく、彼は帝国海軍の連合艦隊司令長官になるが、海軍次官の時代には日独伊三国同盟に猛反対、「絶対に米英と戦争してはならない!」と主張。陸海軍の首脳部からは政治の舞台に置いておけない目障りな存在であり、右翼からの暗殺の危険が非常に高いので海の上の司令長官に転出させられる。彼が手塩にかけて育てた海軍航空部隊を主力とする機動部隊は当時の世界の最強レベルまで達し、敵であった米国海軍の高官や有識者から未だに尊敬されていると米国の友人は墓前で語った。
 河井継之助も山本五十六も共に「戦わざるためにこそ、ハイレベルの軍事力を持つ」と主張していた。
 安全保障、外交に大きな関心がもたれる昨今の日本に、二人の存在は現代にも生きる考え方の一つと長岡で感じた。


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