MAN会報
アメリカ村今昔

幹事 鳴瀬 勇

 私が現在のアメリカ村でカメラ屋を開業したのは昭和39年1月でした。
 当時のアメリカ村は店舗は少く静かな普通の町でした。東側の心斎橋側と違って御堂筋の西側は人通りも少なく閑散としていました。
 39年頃は夏の夜などステテコ一枚で夕涼みも出来る位で、周防町は車だけが沢山通っていました。ちょうどその少し前に阪神高速の環状線が出来て間がなく地下鉄四つ橋線の工事の最中で、敷いてある鉄板の上から下を覗いて余りの深さに驚いたものでした。
その頃、先代の宮武医院は阪神高速のすぐ西側で診療されていました。
 私の店は病院から百メートル位の近くでした。昔からの喘息で発作に苦しんでいた時よく先代の先生にお世話になったものです。
 当時のアメリカ村の三角公園は土の小さい普通の公園で子供の遊具のブランコや滑り台のある普通の公園でした。あの当りがどうしてアメリカ村と言われるようになったかは、公園のそばで四十年以上商売をしていた私も詳しくは判りませんが、始まりは、アメリカで仕入れた中古のジーンズを売り出した店が出来てそれが増えてきて、マスコミが取り上げて、通称アメリカ村と言い出し、それが通り名となり大阪で一番有名な場所になりました。
 それでも始めの頃は、折角有名になって来たからもっとPRしようと町の住人や商店主達が周防町と三角公園を美しくしようと毎月皆で寄って清掃を始めました。その内公園も今の様に煉瓦造りに改装され綺麗になりました。
 又、御堂筋の入口にある関電の変電所の壁に有名な画家に壁画を画いて貰いました。始めは変わった画やなあと思って見ていましたが、その内段々と町に合う様になり以来何十年もその儘残されています。その後バブルの好景気にも乗り、アパートや住居の沢山有った町が、すっかり商業の街に変身、昔の面影はなくなってしまいました。
 その後、宮武医院も移転されましたが、私の店からは自転車で五、六分の所ばかりで大変助かりました。
 昔は年に二、三回は大発作で苦しみましたが、最近は吸入式の新しい薬が出来、発作前に押さえる事が出来るので助かっています。それに今の先生が呼吸器専門で何とラッキーかと喜んでいます。
 学生時代に写真の現像等で店へよく来られていた先生にお世話になっている事を思い、光陰矢の如しと申しますが、月日の経つのは早い物と実感しています。
 今も此の病院のお蔭で安心して暮して行けると感謝しています。これからもお世話になりますが宜しくお願いします
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