MAN会報
出陣学徒の生と死(五)

理事 津田 禎三

(10)「梅」の最後。
 やがて夕陽が西に傾きはじめ、敵機は去り、あちこちに「梅」の乗組兵が浮遊物に取り縋って泳いでいました。沈没を免れた僚艦が海上から我々を救出してくれました。この日の戦闘で駆逐艦「梅」は沈没、僚艦一隻は大破、一隻は小破。私は僚艦の甲板で身を起こし、うす暗い天空のもと海中に静かに姿を没して行く「梅」に敬礼し、最後の別れを告げました。涙が止まりませんでした。乗組員の半数以上は、バシー海峡の藻屑と消えたのです。かくて、このあまりにも無惨な闘いは終りました。フィリピンのアパリで我々を待ち焦れていた飛行機搭乗員は、救出艦の姿を遂に見ることもなく、救出作戦は、またもや失敗に帰したわけです。(後日談になりますが、実はこれ等飛行機搭乗員は、潜水艦による第三次作戦により全員救出されました。しかし、彼等の殆んどは、太平洋戦争最後の激戦地沖縄に特攻として出撃し、その若い生命を全うしております。フイリピンが孤立した戦線として生き残る可能性もあった以上、彼等を救出したことがかえってその死を早める結果を生んだとしかいいようがありません。)私は僚艦の「楓」(駆逐艦)に満身創痍の身体を横たえ、深夜高雄に帰投し、直ちに高雄海軍病院に送り込まれ傷の手当を受け、折れた右脚に応急のギブスを巻いてもらいました。その後、病院船高砂丸で冬の台湾海峡を北上し、別府の海軍病院に護送されました。
 「右下腿貫通爆弾々片創、複雑骨折、左右大腿盲管爆弾々片創」。これがポツダム海軍中尉津田禎三の傷病名です。今なお、アメリカ製の鉄の破片七個が私の左右大腿に棲みついています。折れた右脚は立派につながってはいるものの、左脚より一糎何粍か短かく、それでも戦後の壮年期は何の支障もありませんでしたが、年とともに膝・関節が変形し、脚の動きにいささかの痛みと不自由を覚えます。しかしそれでも、卆寿の今も壮健で、「生涯現役」の弁護士であり続け、このことを誇りにし、かつ楽しんでおります。
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