MAN会報
一日がかりで愛媛県から宮武内科へ

会員 宇都宮 雅征

 大阪を去り故郷に帰って、もう早くも6年目になった。でも私は今でも、2月に一度は、一日がかりで宮武先生の処へ通っている。これにはちょっとした訳が在る。まあ、勿論、持病の喘息は、専門に勉強をやった先生で無いと駄目なのは元々承知だから宮武先生以外考えられないが、それと、このような事を言えば一生懸命診てくれている宮武先生に不平を言われそうだが、それは、私には子供の頃から抱いていた作家と言う夢が、それも55歳までは本当に雲の上の宝物と同じだった。と言うのも、この55歳までは、作文も手紙も精々原稿用紙でも便箋でも二列か三列がやっとだったのだから、幾ら子供頃から抱いていた夢でも絵に描いた餅のような感じだった。それが不思議に55歳になった途端、原稿用紙で250枚の小説が書けたのだ。まあ、この頃の作品はただ文章を綴って居るだけの物だが、私に取って嬉しかった。その55歳から突然自分の手の届く範囲まで近づいた夢、これを掴むまでは元気で居たいから、自然、大阪へ日帰りのような夜行バスを使って行く。そのような日程だから、人は、疲れそうに思うだろうが、私は一向に疲れたと言う印象が無い。それはやはり一番には子供の頃から描いて居た。それも、この愛媛県出身の大江健三郎先生のように学業が全てが優秀な人物しか出来ない物と思って居たものが、私のような劣等生にでも出来た事に在る。このやっと書けだした物を、何とか、表舞台に出してから逝きたい気持が心に在るからだ。今は殆どサスペンスを書いて居るが、この作品を時々、周囲の本の好きな方に読んでもらって居る。それも読んで貰う前に、こんな話しをする。これは高峯さんにも最初話した事が在るが、私は学校の授業で、嫌いな科目と言えば一番は国語だった事を、だから何時も、通知簿は三か二の成績だった。と言う事を話す。それから後、作品を読み終わって帰って来る言葉が、宇都宮さんあなたが言って居た国語が嫌いと言うのは嘘でしょう。幾ら何でも国語が嫌いで、勉強が出来ない人に、これだけの小説が書けるはずが無いわ。と何時も言われる。でも、この勉強が出来ず国語が嫌いだった事も良い格好でも無く本当だったのだ。だからもしチャンスが在って表舞台に出る事が出来ても、勉強が出来ず、おまけに国語が嫌いだった事は堂々と言うつもりだ。何処かの先生のように、行ってもない学校を行ったようには言いたく無い。
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