MAN会報
出陣学徒の生と死(三)

理事 津田 禎三

(6)比島沖海戦と特攻。
 昭和一九年一〇月二三日から同月二七日に至る比島(フィリピン)沖海戦で、我が日本の連合艦隊は、戦艦三、航空母艦四、重巡洋艦八、軽巡洋艦四、駆逐艦一一、計三〇隻の艦艇を喪失し、殆んど壊滅状態となりました。やがて同月二五日フィリピンのクラーク基地からの「敷島隊」出撃に始まる合計二、三六七機といわれる「神風特別攻撃隊」の作戦は、戦争終結の日まで続きます。

(7)アパリ作戦。
 「梅」が極秘の作戦命令を受けた昭和二〇年一月の時点では、敗戦色濃厚ないずれの戦線でも飛行機の数が極度に減少し、加えて搭乗員は涸渇状態でした。そこで孤立したフィリピンに残留する陸海軍飛行機搭乗員を救出し、次の戦線へ送り込もうという作戦がたてられ、その搭乗員達が急遽アパリに集結しました。しかし輸送船を用いた第一次救出作戦計画は、無残な失敗に終り、我々に課せられたのは第二次作戦で、駆逐艦三隻で夜陰に乗じアパリに突入し、陸海飛行士全員を救出しようというものでした。この作戦命令は、私がそれまで駆逐艦「梅」の航海士として体験したどの作戦とも全く様相を異にし、敵の完全な支配下にある地に突入して救出を遂行するという過酷な内容のものでした。太平洋を遥かに南下し、敵の制空権下にあるバシー海峡を経てアパリに至る道のりは、あまりにも遠くて厳しい。

(8)「梅」の出撃。
 一月三一日未明、駆逐艦「梅」は静かに錨を揚げました。薄暗がりの岸壁には、司令部付きの将校が何人か見送りに来てくれており、その中には同じ学徒出陣仲間の久保田彌一郎少尉もいました。(彼が航海士として乗り組むべく帰港を待っていた駆逐艦「檜」は、「梅」より一足先の一月七日に沈没しましたが、彼は今も健在です。)左営の軍港を離れるまで、彼等のゆっくりと打ち振る軍帽が小さな円を描いているのを目にし、朝靄のなかで身の引き締まる思いでした。二隻の僚艦が音もなく後に続く。「梅」の艦橋で聞こえるのは、艦長の号令と操舵員の復唱の声だけで、他に口を開くものは誰もいない。艦は針路を南西にとり一路フィリピンへと向う。天気晴朗、浪は高く、台湾の山々は水平線の彼方に消え、単調な航海が続く。航海士の私は、艦位を測定して艦長に報告し、海図に書き込み、僚艦との連絡のため信号兵を指揮する。ほてった頬を潮風が荒々しくなぶって行く。郷里のことが断片的に脳裡をよぎりました。

 バシー海峡に入ったのか、舷側に砕ける浪の音が次第に激しくなってきました。随分と時聞が経ったが、 予定されている味方護衛機の姿は見えない。そろそろ来なければいけないはずだと見張兵に命じ、味方機の現われそうな方向を特に監視させる。艦は前後左右に大きく揺れ、海水が甲板を勢いよく洗う。そのとき、直ぐ横の見張兵が大声で私に叫びました。「飛行機三機、左、後方!」私は、急いで双眼鏡に眼を当てる。遂に来た!水平線の彼方に、小さな黒い芥子粒が三つ、味方機の来る方角だ。「敵機か味方機か。」「未だわかりません。」三機の飛行機は、ゆっくりと南に向けて我々の艦と併進している。私は急ぎ羅針盤で方位を測定し、艦長に向かって大声で報告しました。「飛行機三機、左何度。距離何瓩(キロ)、水平線上を南に進んでいます。」「味方護衛機のようであります。」今にしていうならば、この最後の一言は、不用意に過ぎたと悔んでもなお余りがあります。私は、この一言のため帝国海軍の軍艦を一隻、むざむざ太平洋の海中に沈めてしまったのではないかと自責の念から逃がれることができません。艦長と航海士とのやりとりは更に続きます。「おう、来たか。」「ハイツ。」艦長は、何時もと変ることなく無言のまま双眼鏡で、じっと飛行機の方角を凝視している。飛行機は艦に近づくこともなく遥か彼方を併進している。それから何どき経っただろうか。水平線上の三機が俄かに方角を変え「梅」に向かって直進して来る。悪魔的な速さでした。飛行機は味方機でなく、敵空軍の俊足ノース・アメリカンだったのです。しかもそれが三機とは!わが方の極秘無電は、敵に完全解読されていたに違いありません。 (次号に続く)


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