MAN会報
出陣学徒の生と死(二)

理事 津田 禎三

(4)高雄の空爆。

@東港の水上基地で遭難した若い学徒出身の少尉達を待っていたのは、厳しい任務と激しい戦場です。やがて一人、二人と任地に向けて東港をあとにし、戸川記者等も高雄に向かいました。駆逐艦「梅」への乗艦命令を受けた私は、単身高雄行きの古びた列車に乗り込みました。残留の遭難仲間が三人、見えなくなるまで軍帽をゆっくりと振りながら見送ってくれた姿が今も眼に焼きついています。 

  A高雄の左営(さえ)軍港には「梅」の姿がありませんでした。新しい作戦命令を受け出港中と聞かされ、私は高雄の海軍水交社に止宿し、「梅」の帰港を待ちました。
 高雄の港は、毎日のように米軍機の爆撃を受け、戦闘配置のない私は戦う術もなく、戦闘服に指揮棒という出で立ちで空爆を観戦するのが日課となりました。そんな或る日、港湾爆撃を終えた爆撃機の一機が何を見つけたのか市街地目がけて突っ込んで来ました。あっと言う間の出来事で、こともあらうに、私が庇を借りていた、その建物へ爆弾を投下したのです。建物の中へ飛び込み身を伏せるのと、ガラガラッと柱や壁が頭上から全身においかぶさってくるのとが同時でした。この時も、東港の海に落下したときと同じで、私は身体のどこにも痛みを感じることもなく、やがてあたりが静かになったので、全身にのしかかった柱や壁を押し上げ押し除き、埃だらけになって這い出ることができました。私は幸運にも、崩れ落ちた柱と柱の間に挟まり傷一つ負わず独力で脱出したわけです。このまさかの一発の爆弾により、逃げ遅れた町の人が二人死亡し、内一人は幼児でした。重軽傷者は十数名に及んだと聞いております。

(5)駆逐艦「梅」の日々。

@翌々日、「梅」が左営(さえ)に入港し、私は、一種軍装に短剣、白手袋で身を固め、衛兵の敬礼を受け艦上の人となりました。角帽姿に襷がけ巻脚絆という今から思えば珍妙な姿で甲子園球場に程近い我が家の門を後にしてから、丁度一年と二ヶ月目のことでした。

A「梅」は、終戦間近い昭和19年6月竣工した小型(1,200トン余)低速(二八ノット)の戦時増産型一等駆逐艦で、装甲は薄いが強靭。高角砲三門、爆雷発射管四連装一基をもち対空・対潜兵装を重視し、通称「雑木林」と呼ばれていました。乗組員総数330名余、士官十数名。将校不足のためか、私は航海士兼通信士兼機銃群指揮官兼第四分隊士(航海分隊、40余名)を命ぜられました。

B私が海軍士官として始めて戦闘配置についた昭和20年1月20日は、米軍の日本本土侵攻に備え大本営が本土作戦計画を決定し、一方米機動部隊は、大挙して日本本土を襲い爆撃の回数が日増しに多くなっていました。
 「梅」では、夜が明けるや「総員戦闘配置につけ!」のブザーが艦内に鳴り響き戦闘の一日が始まり、陽が落ちて敵機が見えなくなるまで戦い撃ち続けます。私が指揮する機銃群は、気が狂ったように撃ちまくりますが、グラマンの一機も落とせません。この状態でも、わが「梅」の艦長は見事でした。大海原を直進する「梅」の艦橋前面中央に仁王立ちになり、艦に向けて突っ込んで来る敵爆撃機が機首を少し下げ爆弾を投下する瞬間を双眼鏡で見届け、爆弾の先端と胴の見え具合を確認して落下点と艦の位置を目測する。やおら艦長の号令が確信をもって響きわたる。「オモ舵一杯!右九〇度!」。操舵員が「オモ舵一杯、右九〇度」と大声で復唱し舵輪を一気に右に廻す。「梅」が軋みながら大きく右旋回。その舷側間近に敵爆弾がドドドッ!と水しぶきをあげます。流石歴戦の海軍中佐よと、同じ艦橋に在って私は、肝を冷やしながらも感嘆の声を上げずにはおれませんでした。
「梅」は、昼間は港の奥深くに碇を下ろし、敵機の襲来に備え戦いますが、作戦行動は夜が多く、物資の輸送、味方艦船の護衛、特殊連絡等々、時には、24時間休みなく作戦行動に従事します。

C学徒出身で加えるに幼い頃紀州の山奥で育った私は、至って船に弱かったのに、冬の台湾海峡の荒れ具合は凄まじいものでした。全速で走る艦は、右に左に大きく傾き、前に突っ込み後尾が沈む。海水が絶え間なく甲板を洗い、艦全体が苦しげな悲鳴をあげてガタガタと振動します。航海中の私の定位置は艦橋(艦の最上部にある指揮所)です。狭い艦橋には、艦長、先任将校、航海長、時には、司令や参謀もいます。艦橋後部にある海図台のあたりが航海士の定位置です。ここで新任士官、津田少尉の激しい船酔いとの闘いが始まります。胃袋の底から突き上げてくるものを始めのうちは手で口を押さえて呑み込みますが、直ぐにまた吹き出してきます。二回、三回と口を押えて呑み込みますが、終いにはたまりかねて、艦橋の隅で戦闘帽に吐き出すものの汚物の捨て場がない。艦長等に見られぬよう、身を低くし眼を閉じて帽子の中の我が汚物を食べる。冷たい膏汗が全身から噴き出してくるのが分かりました。やっとのことで、隙を見つけ艦橋を離れタラップを駆け降り便所へ駆け込みます。汚物との戦いが重なると、終いには吐き出すものがなくなり、絞るようなみぞおちの痛みとともに、血の混じった何とも嫌な味のする黄水を吐きます。

Dかくて、艦橋勤務の厳しい日々が過ぎ、私も次第に筋金入りの海軍将校に鍛えられ成長していったようです。船酔いもしなくなりました。大揺れに揺れる艦内のガン・ルーム(士官食堂)でぜんざいも食える、死に対する恐怖もなく、ふてぶてしくさえなったようです。昼間の対空戦は日課の一つとなり、深夜の航海中に敵潜水艦が浮上し追尾して来ても、気にならなくなりました。異常な戦闘状態に休止はありません。艦内では、毎日のように何人かの兵士が死んで行きました。港で迎える夜毎、「今日も生きてる・・・。」陽焼けした腕をさすりそんな独り言を呟きながら、酔いつぶれるまで飲みました。

E二月末には、第三八船隊司令部から極秘の作戦命令が届きました。
 ―「梅」は、僚艦二隻とともに、直ちにアパリへ急行せよ。味方戦闘機三機が護衛する予定。―
 アパリは、フィリピン、ルソン島の北端にある小港です。当時、戦況我に利なく、比島は孤立無援、制空権は完全に敵側にありました。台湾海峡での作戦とはわけが違う。アパリは、何故か異常に遠くに思えてならず、はたしてそこまで無事辿り着けるだろうか。行く手に連なる広い海には死神がさまよい、無数の兵士を飲み込むべく舌なめずりをしている。

次号(アパリ作戦とバシー海峡)に続く。


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