MAN会報
「パッチワーク人生」を彩りあるものに

事務局長 高峯 秀樹

昨秋の10月13日に喜寿を迎えることが出来た。嬉しかった。本来ならこの感激は人生の一回りを終えて新しい人生に向かうと言われる還暦に口にするべきであろうが17年遅れての感慨である。生きていることは尊い。そして有難い。この感謝の心があってこそ生命のある万物と共存し、世のため人のために尽くす気持ちが生まれてくる。
77年を振り返ると道草ばかりしてきた。しかしその原因を考えるとストレスを避ける知恵だったのかもしれない。道草をする度に興味のある分野が増えていった。何事も新しみは組み合わせから生まれるのでこれが幸いしているのであろう。次々に楽しく生きるアイデアが浮かんでくる。この経過が結果的にパッチワークとなってきている。
パッチワークは本来端切れを一枚の布につなぎ合わせたものである。最初は雑巾のようなものであったが、現在では世界的なアートとして鑑賞される作品も多々発表されている。
私の人生も雑巾のようなパッチワークで始まったがやっとアートらしくなってきたようである。
スタートは小学校である。三年生まで全甲、六年生まで全優で、神奈川県立湘南中学に入学出来た。たった六ヶ月ではあったが級長になった。これが私の人生の生きる原点になっている。高校三年卒業の頃は全く低迷していた。然し幸運にも早稲田大学の第一商学部に入学出来、しかも日本育英会の奨学金を受けることが出来て青春をかなり楽しく過ごすことが出来た。学問の方も、アメリカから日本へマーケティングを導入したと言われた宇野政雄先生の知遇が得られ就職も希望のファッションビジネスが中心の百貨店へ推薦していただいた。 希望した大丸へは、早稲田大学の先輩が紹介してくれた朝日放送社長の飯島幡司先生に気に入っていただき大丸の北澤敬二郎社長に推薦いただき入社の保証人にもなっていただいた。このお陰で百貨店の全盛期の営業や宣伝の企画のほとんど全ての分野で活躍することが出来て色々な分野の人脈が生まれて今でも数々の恩恵を受けている。
不思議なのは大阪との縁である。先ず第一は宮武明彦先生のお父様、明一先生との出会いである。就職試験の身体検査で胸に影があるとのことで落ちかかり、そんなことはないとの思いで心斎橋周辺の医院を探し歩いた。たどりついたのが宮武医院であった。診察の結果は風邪で、大丸は良く知っているから説明しておいてあげると言っていただいた。窮地を救っていただいた恩人である。 第二は家内との出会いである。大丸心斎橋店のネクタイ売場で活躍していた。後で判ったが、短歌的抒情の否定で文学史上でも有名な詩人小野十三郎の次女で滅法明るい性格であった。毎日が輝いていた。結婚してからは両親の近所のアパートに住んでいた時期があり、毎晩のように四人で家庭麻雀を楽しんだ。義父との出会いがきっかけでマスコミや文学、美術関係の方々との交友が広がった。
大丸を定年退職する五日前に母が亡くなった。一ヶ月後に大阪の都市ホテルで、友人、知人50名が発起人になってくれて日本で初めてと思われるオールナイトのパーティーを開いて元気付けてくれた。母の遺影を飾らせていただいた。15000円の会費であったが約150人が参加してくれた。二次会は大丸の食堂の女性責任者が担当してくれた。大丸の下村正太郎社長から僕でもして貰えんなと退職の時、挨拶の言葉にいただいた。パーティーの酒の肴にと急遽作った「裸の自分史」(株式会社トニホー刊、八百部)が評判が良く、その後は誘われるままに、国際協力、国際親善、環境関連、美容、旅行業、医療ボランティア、コンサルタントなど多くの団体や会社の役員を務めてきた。
また退職五年前頃から「元気で長生き」をスローガンに、右脳を活性化する為に油絵、書道、俳句を始めたのが、ストレスを和らげるのに役にたった。特に俳句は畏友田中 登氏(元桃谷順天館美容部長)の導きで、現代俳句のパイオニアと言われる山口誓子先生と先生の片腕で俳句を学問にしたと評価された松井利彦先生に学ぶことが出来た。最近では「山口誓子師・松井利彦師に学ぶ」など多くの随想を発表している。この夏には「裸の俳句史 ピカソが判ると俳句が判る」をJDC出版のこころシリーズの一冊として出版する予定になっている。 今迄はいつも何事も夢を持って旗を振って歩いてきた。振り返ると誰も居ないこともあった。新しいことに取り組むので摩擦も絶えなかった。100人のうちの一人が強力に支持してくれた。そのお陰で生きてこられた。その反面失意の日々も多かった。それを支えてくれたのは信仰である。キリスト教に縁を得て、途中仏教に転向したが、理論に実践に熱心に取り組んだ日々が懐かしい。この世は見える世界と見えない世界から成っている。見えない世界から支えられている自分がいるのが見えるこの頃である。
不思議なことに喜寿を迎えた途端に自分の行動が一変するのが判った。こだわりが消えたのである。何にでも判らない事、判りにくい事は素直に聞き、掌に掴んでいるものは片手だけにして片方はすべてを捨てて欲しいものが掴めるようにした。結果的に口先だけで生きてきたことが判り、強く反省して、直接相手の人と接する現場の人々の声を聞き姿を見て行動することにした。もう十年も前になるだろうか、出版社の女性社長から「こころシリーズ」の一冊にと「であい すばらしき人々」の出版を勧められ束見本までいただいた。ようやく心の整理が付いてきたのでこのような心の軌跡を「吾がパッチワーク人生」のタイトルでまとめたいと思っている。


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