MAN会報
出陣学徒の生と死

理事 津田 禎三

(1)卆寿を迎えて。

今年、数え年九十歳の卆寿を迎え、よくぞここまで生き得たと驚き、且つは有難いことだと心の底から熱いものを感じています。
戦傷の後遺症で両脚を引きずりながらも毎日事務所に顔を出し、依頼者の話に耳を傾け、或いは若い弁護士と議論し、そして難しい事件の相手方と話し合うのが楽しみです。与えられた仕事を楽しめる日々に感謝しています。
 私は、かつて日本が世界を相手に戦った戦争末期、海軍将校としてこれに参加し三度遭難しましたが、強運にも命長らえ今日を迎えることができました。私は、激しい戦いのなかで生と死の狭間を彷徨いながら学び感じ強くなったのです。

(2)学徒出陣。

@ 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争が、敗戦色濃厚となった昭和十八(一九四三)年十月二日「・・・当分ノ内在学ノ事由二由ル徴集ノ延期ヲ行ハズ・・」と勅令第七五五号が公布され、文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止されました。やがて、明治神宮外苑競技場において、東条英機首相、嶋田海相、岡部文相等が出席し、「出陣学徒壮行会」が執り行われました。世に言う「学徒出陣」です。当時、中央大学法学部二回生として在学中であった私も、三八銃を肩に雨中の大行進に参加しております。
A 同年十二月十日には、広島の大竹海兵団に海軍二等水兵として入団し、翌十九年二月、横須賀武山海兵団、武山学生隊に入隊しました。身分は、海軍兵科第四期予備学生、総員三三五五名が三個大隊、十二分隊六十区隊三百班に編成され、五カ月間にわたり厳しい基礎訓練を受けました。その後、私は横須賀海軍航海学校に入校、約半年間の士官教育を終えると同時に海軍少尉に任ぜられ、即日駆逐艦「梅」に航海士として乗組を命ぜられました。その間、家族との面会もなく、「梅」が戦闘中のフィリピンヘ向けて出発しました。
B 私は、大学在学中に、召集令状が来るとは考えてもいませんでした。神宮外苑における雨中の出陣壮行会で、初めて自分が戦争の真只中にあると強く感じました。恐怖はなかったが、日本のために、親、兄弟を守るために戦場に向かう意識はありました。左脳では死を考えていましたが、右脳に死のイメージは全くありませんでした。
C ここで、私が海軍航海学校在学期間中の太平洋上における戦闘状況を略記します。
昭和十九年七月、サイパン島の日本軍守備隊玉砕。
同年八月、グアム・テニアン島の日本軍全減。
同年十月、台湾沖航空戦で日本空軍敗北。
同年同月二十四日、比島沖海戦で戦艦武蔵、空母瑞鶴、瑞鳳沈没。
そして、同年十一月二十四日、サイパン島基地にあった米空母からの日本本土爆撃が始まりました。

(3)東港の空と海。

@ 米空母による本土爆撃の詳細を知ることもなく、私を乗せた飛行艇は一路フィリピンヘと横浜を飛び立ちました。運命の巡り合わせでたぐり寄せられた乗員の殆んどは、少尉に任官したばかりの出陣学徒でした。勿論、彼等は、二日後には敵と戦うこともなく飛行艇と共に東港の海に沈む運命にあることを知る由もありません。
A 乗員のなかに海軍報道班員の戸川幸夫氏(毎日新聞特派員で、後に動物作家として直木賞受賞)がいました。私達は鹿児島の鹿屋に一泊、翌早朝、台湾の東港に着水すべく飛び立ちました。これから先のことは、戸川幸夫氏が「五銭玉の友人たち」と題する随筆(五銭玉とは四銭(死線)を超える意)を昭和四十三年の小説新潮、新春特大号に掲載し、その冒頭に書かれています。『昭和十九年十二月二十九日、海軍ご自慢の新鋭、二式大艇が台湾東港の水上基地で墜落し、乗っていた四十数名の軍人軍属のうち約半数が死んだ。その中に私(戸川)がいた。私の宿舎には十四、五人が収容されたが、殆んど学徒兵で、少尉に任官したばかりの元気のよい若者たち|表現をかえて申すならば無邪気すぎるくらい無邪気な学生気分の抜けきらない連中だった。・・・』任官したばかりの元気のよい若者たち|そのなかに私もいました。
B 当日は快晴でした。着水前、艇の窓越しに初めて見る台湾、小さな牛車がのろのろ動いている。突如、飛行艇が海面に叩きつけられる激しいショックを感じると同時に空中高く舞い上がり、そして急速落下。艇内は玩具箱をぶちまけたようでした。次の瞬間、私は艇の裂け目から放り出されました。太陽と空を見ました。「墜ちる」という意識はありましたが恐怖はなく、吸い込まれるよう落下し、途中で失神しました。気がつくと海中を頭をかかえグルグル廻りながら底へ底へと沈んでゆきます。次第に暗くなるのが分かりました。急いで手を振りほどき海面に浮かび上がりました。台湾の海は十二月というのに生温かかった感じが残っています。浮上した眼前には、平和に私達を運んでくれた飛行艇が尾翼を天に向け、海中に没しようとしていました。艇は着水に失敗し、空中高く舞い上がり、失速反転して海面に叩きつけられ、私は、二つに割れた胴体の裂け目から空中に放り出されたわけです。ゆっくりと沈む機体の窓越しに人の動くのが見えました。必死にガラス窓を打ち破ろうとしています。私は急いで泳ざより、厚い窓ガラスを叩きに叩きました。機内に海水が溢れ人影がもがいています。私は泣きながら自分の頭をガラスに打ちつけました。しかし、私の眼前で窓は固く閉ざされたまま、飛行艇は内部に残る人達ともども海中に姿を消しました。このときの情景は、今も悪夢のように私を襲います。
C 私達はやがて救助艇により救出されましたが、私は四鉛化エチレンを含む油で身体中が火ぶくれになり、終戦後も肩から腹部にかけて火傷の痕が残っていました。
二、三日後、艇は引き揚げられました。若い少尉が破れた窓から片足を出したまま死んでいたと聞かされ、思わず胸が引きつったのを覚えています。この事故で東港の海に散った者は、学徒出陣の健康そのものの若い少尉ばかりで、その数は十指を超えます。彼らはペンを銃に持ち替え、一年有余の厳しい訓練の後、少尉に任官して僅か四日後に、この世を去ったのです。遺品を整理すると、手垢に汚れ、海水でふくれあがった何冊もの岩波文庫本が見つかりました。
私はこの時、満二十四歳と三ヶ月。一週間も経たぬうちに元の元気を取り戻し、実戦に参加はしていないが、九死に一生を得た自信が身体の底から沸いてくるのを感じました。

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