MAN会報
はじめての喘息と、セカンドオピニオン

理事 山田 清之

 「はじめに」

 還暦(61歳)、録寿(66歳)、古希(70歳)、そしていまでは、喜寿(77歳)を目前に生涯現役を目指して元気に過ごしている。あっと言う間の15年だった。
 昔なら、とっくに年寄り扱いのはずだが、世の中、元気な高齢者が増えたせいか、アクティブシニアとおだてられて、年寄り扱いしてもらえない。
 しかし私の場合、決してこれ迄、順風満帆の毎日を過ごしてきたわけではない。

 「初めての喘息

 確か5年前の冬だったと思う、国際交流の社会貢献団体を立ち上げて5年目の頃、連日繁忙のさなか風邪をこじらせ、毎晩、息の詰まる苦しみに明け暮れていた。
 そして、救急外来で訪れた大病院の呼吸器医局の見立ては、初期喘息だった。
 風邪以外、病気らしい病気を知らない私にとって、まさに晴天の霹靂であった。
 わたしが、喘息と言う病名と、名実ともに初めて出会った瞬間である。
 その大病院の専門医は、この病気は、気道の収縮と炎症が要因で、根気のいる治療が必要な事、特に高齢者は老化要因もあり、完治は極めて難しいこと、しかし、適切な治療でコントロールすれば、仕事も大丈夫とのご宣託であった。
 その時の処方薬の記録を見ると、「パルミコート100」毎日2回、1回2度吸引。そして「インターカプセル20」毎日2回吸引。毎月2回程度の診察を挟んで、喘息克服への挑戦が始まった。
 ゼイゼイは、幾分少なくなったが、寒さが募ると時折息苦しくなる。1年近く経過したが、指示通りの治療にもかかわらず一進一退の病状が続く。しかし全く改善の気配がない、
 明けて平成6年の新春、新年挨拶のために訪れた知人の上場企業の社長が、咳き込む私の様子を見かねて、重症の喘息を克服した奥さんの主治医を紹介しようということになった。

 「私のセカンドオピニオン」

 それは、忘れもしない平成6年2月22日だった。
 私にとって初めてのセカンドオピニオン、宮武先生との劇的な出会いだった。それから半年、夏に向けて喘息の症状は、急速に快方に向けた。
 ゼイゼイも息切れもなくなった。
 当時の宮武内科の処方箋をみると、「パルミコート200」毎日2回、1回当り1度吸引。
 「インターカプセル外用20」(インタール20)毎日2回吸引。
そして、朝晩のピークフローメーターによる「喘息日記」の記録が義務ずけられた。レントゲンと血液検査の結果による病状の見立てと、治療の指針が、適切に指示された様に記憶している。
 月1〜2度の診察と処方薬などは、前回の大病院と殆ど変わらないのに、病状は驚くほど急速に改善した。
 なぜか。
 診察のときの先生の療養に対する厳しい見立て、そして適切な診察のやさしい語り口が、患者に絶対の信頼と安心を与えるように思えた。
 熟達した臨床専門医として培われた先生のノウハウの深さが垣間見えた感じだ。その後も月1回の診察は欠かさないが、先生には、ホームドクターとして、健康に対するサポートもお願いしている。

 「生涯現役をめざして」

 先生との出会いから既に3年、NPOアズマネットワークにも入会し、喘息を克服した多くの仲間と出会う事ができた。昨年春には、先生や30人近い患者の有志の方々と、私が関係するタイ王国チェンマイへの癒しの旅をエスコートさしていただいた。
 そして今では、ほぼ連日、健常者に近い仕事生活に明け暮れている。
 それをいいことにして、最近では、元気な仲間と「八掛けの会」なる集いを立ち上げ、お互いにまだ50歳台とほざいて、月に2〜2回集まることにしている。
 集まりの目的は、まず50歳代の男の意気込みとライフスタイルを取戻す事である。、「新鮮な感動と日本の四季に感謝」をキーワードに、あるときは芝居を見たり、美味求真を求めて季節の肴に舌ずつみをうったりしている、いつもながら楽しい限りだ。
 また、本来の日本とアジアの国際交流活動に加えて、大阪府の「アクティブシニアあふれる大阪構想」を推進する社会貢献活動にも参画し、こよなく愛する大阪のために、100にあまるNPO団体を束ねて、シニアの協働活動に余念ない毎日である。再び取戻せた健康のすばらしさに感謝しながら、生涯現役のアグレッシブな毎日が過ごせるよう、これからも努力して行きたいと願っている。

●もどる●