MAN会報
麦酒事始(ビールことはじめ)

理事 吉富 康二

 江戸末期それまで「舎密学(せいみがく)」と翻訳されていた言葉を日本で初めて「化学」とした人、川本幸民(かわもとこうみん1810〜71)は世にあまり知られていない。彼は三田藩の藩医の子として現在の三田市に生まれる。幸民は若くして三田藩主九鬼降国に認められ、江戸に留学、蘭方医坪井信道の塾で弟弟子の緒方洪庵と共に学び江戸で開業。下級武士だった彼は有能故に上司から妬まれ酒席で刃傷沙汰や自宅が二度も大火に見舞われるなどの波乱の人生を送る。彼はオランダ語を通して日本に入ってきた科学技術を翻訳するだけでなく、実験や試作を繰り返す実証的な科学者でもあった。幕府の蕃書調所(後の東京大学)の教授となり、舎密局を開設、銀板写真、マッチ、ジャムの試作、物理学やアームストロング砲の指導書等も作成した。1857年ドイツ人J.A. シュテックハルトの著書〔Schule derChemie〕のオランダ語訳本を重訳し「化学新書」を世に出す、中にはビール・ワイン等の醸造方法も記載されている。1853年ペルリー来航のおり幸民がビールを供応したのが動機となり、自宅でビールの醸造を試みたとされているが、証拠となる資料は無い。試醸ビールの試飲会を緒方洪庵、村田蔵六らを招いて、浅草の曹源寺で行った記録が在ったらしいが空襲で焼失したという信憑性の高い言い伝えがある。1998年キリンビール神戸工場在職中、郷土の生んだ偉大な先人の「幸民ビール再現」に挑戦した。ドイツのドレスデン大学の原著の文献まで紐解きやっと完成。ビールの章だけではあったが、彼が翻訳を誤っていたのは固有名詞の「バイエルン(南ドイツの州名)」と「シャンパン」の二語のみ、現在の生化学やビールの専門知識から判断しても、正確に翻訳しており、彼の想像力、洞察力、努力は敬服に値する。



 「ゆとり教育」も叫ばれているが、人材以外に資源の無い我国には血の出るような努力と忍耐で学問を学んだ先人の魂を継承する教育こそ必要と思われる。

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