MAN会報
亡き父のこと

理事 津田 禎三

 私達の事務所の創立者(1915年、大阪弁護士会、登録。)であった父は、八七歳まで、毎日事務所に出ていました。いつも母が一緒でした。
 若い頃の父は、厳しいというより怖い存在でした。こんなことがありました。何が原因であったか記憶にないが「おまえのような男は生かしておく訳にはいかん。世に害を流す。」と言うなり床の間に立て掛けてあった日本刀を抜き放ちました。私は、とっさに中庭の回り廊下に飛び出し、親父を見つめて逃げたときの恐ろしさは今も忘れません。父、四六歳。私が小学校四年生のときでした。
 父は、私が三歳のとき、今でいう暴力団で、鳶職を生業としていた名のある組の、大阪市に対する請負代金を差押えました。これが大事件に発展し一歩も引き下がらぬ父に業を煮やした相手方は、当時居宅でもあった事務所を、毎日朝開けてから夕方表戸を閉ざすまで組幹部らによって占拠しました。五人の子は夫々親類に預けられ、私は、唯一人、紀州の山村にある母の実家に連れて行かれました。事件は、その後、顧問先であった大林組二代目社長の肝入りと天満警察署長の介入で二ヶ月にして和解が成立。兄や姉は、早々と家に連れ戻されましたが、どういうわけか私は、小学校に入るまで紀州の山奥に捨て置かれました。厳しい祖母の目をかすめての自由気ままな奥山生活が私の根性を鍛えてくれました。大阪に呼び戻しはしたが、並の悪餓鬼でない私に手を焼いた父は、小滝晁良という還俗禅師の道場で毎晩のように座禅を組ませました。日本刀騒動があった後のことです。
 この頃の父の一日は、早朝六時に始まります。寝床の中で独特の体操で全身を解きほぐし、洗面が終ると仏壇の前に正座し、声高らかに読経が続きます。その後は服装を替えて朝の散歩。老松町界隈からお初天神周辺まで足をのばします。夜もコースを変えて歩きます。風雨の強い日には雨合羽姿で強行し、一日も欠かすことはありませんでした。「老松町の先生」と親しまれた父の散歩は、老後、武庫之荘へ居を移してからも続きました。
 私が中学校卒業を目の前にして退学処分になったときも、大学二回生で戦場に狩り出されることになったときも、父は、ことの次第を説明する私の顔を瞬きもせず、じっと見つめていました。言葉がなかっただけに、そのときの涙した父の眼を忘れることが出来ません。
 私は、戦中戦後の挫折と放浪、抵抗と闘争の生きざまに終止符を打ち、長年経営した会社を整理(一九五四年三月)し、弁護士になろうと決意しました。父六九歳、私が三四歳のときでした。無謀な息子が弁護士に挑戦すると聞いた父は、「やっと、その気になったか。」とひとこと言ったまま長い無言が続きました。沈黙の後に出た父の言葉は凄まじいものでした。
 「お前は弁護士になることを嫌い商人の道を選んだ。商人は金を追い利を求めるが悪ではない。然し、弁護士が金に心を奪われると悪につながる。」「会社は幾つ潰しても又やれる。弁護士は司法試験を乗り越えねばなれん。落ちても落ちても死ぬまでやる覚悟があるなら、やれ。」私の顔を見つめる父の思いは、それからの私を決定的に支えてくれました。怖い父でしたが、その奥に流れる暖かい血のようなものが、私の身体を包んでくれるのを感じました。
 その後、私は、八五歳のこの年まで、父の背中を見つめ弁護士一途に生きてきたという思いがあります。
 『護法院殿徹眞正勍大居士』
これは父の戒名です。享年91歳。

* * * 父 勍(つよし)の語録 * * *

1 『尾立てに乗れ』は津田家の家訓。
2 『立派な弁護士と優れた医師を友人に持つ者は、幸せな後半生が約束されている』これは英国の古い格言だが、弁護士である限り人に幸せをもたらす良き友人になれ。
3 弁護士は頭より脚が大事。現場も踏まずに依頼者の利益が守れると思うな。
4 証拠がなければ勝てない。これが民事裁判の鉄則や。
5 法律とは、こんなに難しいものか、分からんことばっかりやとなって、 初めて一人前の弁護士と言える。
6 法律は枯木をしがむようなもの。十年噛みしめて、やっと味が出てくる。
7 酒の飲み方も分からんで、人の心が分かるか。遊ぶとは、自分の金で女を遊ばすこと。
8 反対尋間は、弁護士活動の華だが、敵性証人に対するより、自分の依頼人に対する反対尋問こそ大事。
9 裁判官を、うん、なるほどと納得さす書面は難しい。少なくとも三度は書き直せ。
10 一件記録を大事にせん奴は、えらい目に遭う。
11 事務所の男便所に、墨痕鮮やかにこんなことが書かれた張紙がありました。
 『急ぐとも
  心静かにこ手を添えて
   あざに零(こぼ)すな
    松の下露    所主』
ユーモアもあり気配りの行き届いた、優しい父でもありました。 (なにわ橋法律事務所所主)

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