MAN会報
吸入ステロイド剤の功罪

特別顧問理事 宮武 明彦

 ステロイド(正確にはグルココルチコイド)という言葉を主治医が患者さんに対して口にした途端、 多くの患者さんが拒否反応を示すことを、 私自身も今までに幾度となく経験してきました。 しかし、 そんなにステロイドは恐ろしい薬なのでしょうか。
 1970年、 医学部を卒業して大阪大学医学部第三内科・内分泌研究室で仕事を始めた当時、 内分泌学の指導をいただいた故矢野三郎先生 (後富山医科薬科大学名誉教授) から、 「内科医にとって最も大切な薬を三つ挙げてみなさい」 と尋ねられ、 答えに窮していると、 「麻薬、 抗生物質、 そしてステロイド、 この三つの薬を如何に上手に使いこなせるか否かが、 内科医にとっての永遠のテーマだよ」 とご教授いただきました。 私が入った研究室の研究テーマの一つがステロイドの臨床研究であったことから、 先生の言葉を教訓として私とステロイドとの付き合いが始まりました。
 本来、 ステロイド(グルココルチコイド)は、 人間の体、 両側腎臓の上極に位置する副腎皮質の束状層から分泌されている生命維持に不可欠なホルモンで、 規則正しい日内分泌リズムを刻んでいます。 世界で初めてのステロイド投与の試みは、 1948年、 アメリカ・ミネソタ州・ロチェスターのメイヨークリニックで、 関節リウマチ患者の関節炎症状に対して行われました。 その結果、 投与された患者の多くに、 関節の腫脹と痛みの軽減が認められ、 それ以来、 ステロイドは慢性関節リウマチをはじめ、 全身性エリテマトーデス等の膠原病、 白血病等血液疾患、 ネフローゼ症候群等腎疾患、 潰瘍性大腸炎等消化器疾患、 気管支喘息等呼吸器疾患、 アレルギー疾患および皮膚科、 耳鼻科、 眼科疾患等、 すべての医学領域で使用されています。 病気によってはステロイド以外、 治療の手立てがない場合も少なくなくありません。 しかし、 ステロイドの臨床使用経験が蓄積されるにつれて、 臨床効果と副作用が紙一重の状態にある使用方法の難しい薬であることも明らかになりました。 しかし、 この薬が医者からも 「諸刃の剣」 と称されてからすでに半世紀が経過し、 その間、 各種合成ステロイド剤の開発、 投与方法の検討、 副作用対策等が行われて来ました。 特に、 気管支喘息治療の領域では、 1972年に全身投与による副作用発現を回避する目的で、 吸入によるステロイド製剤ベクロメサゾン(ベコタイド、 アルデシン)がイギリスとアメリカから、 1981年にスウェーデンからブデソナイド(パルミコート)、 1993年にイギリスからフルチカゾン(フルタイド)が発売されました。 現在、 日本においては、 フルタイド、 パルミコート、 キュバールの3種類の製剤が使用可能な吸入ステロイドとなっています。 今後、 さらに2007年夏にはシクレソニド吸入が日本でも使用可能になる予定です。 我々、 気管支喘息を専門に扱っている医師にとっては、 一つでも吸入ステロイドの種類が増えることは、 治療の選択肢が拡がることになり喜ばしいことです。
 開業してから喘息治療一筋に15年が経過しましたが、 故矢野教授が私に下さった 「如何に副作用を出さずにステロイド剤を使用するか」 という永遠の課題に答えるべく、 開院以来、 通院中の患者様のご理解とご協力を得ながら、 一歩一歩研究の歩みを進めてきました。 通常2週間以上にわたりステロイドの全身投与(経口・静注・筋注)をする場合には、 骨等に対する副作用対策を講じることが必要になります。 一方、 全身性副作用が出ないと考えられている吸入ステロイド療法が、 本当に安全か否かを明らかにするために、 骨についての検討を行ってきました。 具体的には、 骨粗鬆症が問題になる閉経前後の喘息患者の骨塩量を、 愛染橋病院のご協力の下、 DEXA法による骨密度測定を10年近く実施し、 女性ホルモン(エストロゲン)が欠乏した閉経後の喘息患者さんは、 閉経前の患者に比較して吸入ステロイド治療による影響を受けやすいこと、 即ち、 骨塩量の低下および骨形成(骨を増やす)マーカーである血清オステオカルチン値が低いことを明らかにしました。 そのため、 当院では骨粗鬆症の診断が下された人達には、 積極的に骨密度を増やす治療を実施しています。
 最近、 冠動脈疾患(狭心症、 心筋梗塞)や動脈硬化病変が動脈の内膜の慢性炎症であることが報告され、 抗炎症治療によって動脈硬化の進展を遅らせることが出来ることが明らかになりました。 現在までのところ、 人類が手にしている最も強力な抗炎症薬はステロイド剤であります。 そこで吸入ステロイドの抗動脈硬化作用の有無について、 頸動脈エコーを実施していた喘息患者さんの頸動脈内膜中膜複合体肥厚度(IMT)を検討したところ、 長期間吸入ステロイドを定期的に使用している患者のIMT値が、 年齢をマッチさせた一般の人達のIMT値よりも低いことが判明しました。 即ち、 吸入ステロイドは動脈硬化を抑制する作用があることを明らかにすることが出来ました。
 このようにステロイドは治療に使われ始めてから、 すでに50年の時を経ていてもすべて解明されているわけでなく、 今回、 私達が明らかにした新たな副作用、 また、 上手く使えば優れた薬理作用を利用出来る薬剤であることから、 使用法さえ熟知すれば恐ろしい薬でないことがおわかりいただけたと思います。
 当院におけるこれらの臨床研究は、 まず、 大阪大学医学部内分泌・代謝内科、 笠山宗正先生、 大月道夫先生、 近畿大学医学部堺病院呼吸器科、 長坂行雄先生をはじめ多くの先生方の助言やご指導のみならず、 喘息患者さん達のご協力があって初めて可能になったものであり、 これからも患者の皆様に役に立つより洗練された喘息治療を追究して行きたいと考えています。 今までご協力いただいた皆様に、 この紙面をお借りして御礼申し上げます。
医療法人 宮武内科院長

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