MAN会報
韓国との道

当会 特別顧問理事 宮武 明彦

 自分でも信じられないのだが、 来年、 2006年1月で満60歳になる。 節目となる年を前にして、 この60年間にどのような所に渡航したのか思い出してみた。 生まれて初めて海外へ出掛けたのは、 1968年の夏、 医学部5年生22歳の夏休みであった。 当時は、 パスポート取得に3カ月、 持ち出し外貨枠が500米ドルの時代であった。
 思い出してみると1968年から2005年の間に、 延べ38回、 海外に出掛けていた。 海外渡航歴を時系列で頭の中から取り出す作業に際しては、 心配していたほどの苦労もなく、 訪れた場所を次々と思い出せたのは、 自分にとって大きな収穫であった。 何故なら、 最近あなたは物忘れがひどくなったと、 いつも家内から苦言を呈されていたため、 私の記憶力も捨てたものではないと認識できたからである。  最初の、 渡航先はイタリア・ローマで、 外国語の夏期講習参加が目的であった。 夏期講習の外国語は以下の4カ国語 (講習場所4カ所) が含まれていて、 英語;ロンドン、 仏語;パリ、 独語;ハイデルベルグ、 イタリア語;ローマの4班が羽田から、 それぞれの目的地に向かって飛び立った。 イタリア班は、 アリタリア航空、 香港・バンコック、 カラチ経由の南回りローマ行きに乗り込んだが、 ローマまでまる1日近くかかった。 医学部の学生は、 ほぼ全員が独語・ハイデルベルグを希望したようであるが、 私は迷わずローマを希望した。 それは、 イタリア語が勉強したかったためではなく、 ただ、 単にローマでひと夏暮らしたかったためだ。 その時、 これからの自分の人生で、 40日もの長い間、 ローマで過ごせる機会は、 二度とないだろうという強い思いがあり、 それ以上の特別な理由はなかった。 強いてローマを選択した理由を挙げれば、 小学生の時に両親と見に行った、 オードリ・ヘップバーンとグレゴリー・ペック主演の 「ローマの休日」 (1954年度作品)、 高等生の時に見たスザンヌ・プリシェットとトロイ・ドナヒューが演じた 「恋愛専科」 (1962年度作品) とその情熱的な主題曲 「アルディラ」 の音と映像の効果が、 私をローマへと誘ってくれたのかもしれない。 その選択に対してパトロンである父親は、 何の小言もいわず送り出してくれた。
 医者になって10年目の1980年の夏、 外務省の外郭組織である日本国際医療団の事業の一つである海外巡回検診に団長として参加することが許され、 アジア特別地域;ベトナム・ハノイ、 ラオス・ビエンチャン、 ビルマ・ラングーン、 バングラデッシュ・ダッカ、 インド・カルカッタ、 ネパール・カトマンズ、 タイ・バンコック、 香港を歴訪した。 たった1カ月足らずの旅であったが、 それぞれの土地で見聞きした経験は、 その後の私の人生と外国観に大きな影響をもたらした。 特に、 イタリア以来、 長らくヨーロッパ一辺倒であった私の頭に、 日本人が世界の舞台で生き抜いていくために必要な観念や心構えを気付かせてくれたように思う。 端的に言えば、 日本は所詮、 アジア以外の場所で生きることは出来ないという簡単明瞭な答えであった。 すなわち、 遠い昔から一緒に暮らしてきたアジアの人々と協調し行動することが、 日本人に課せられた使命であり、 誠意ある貢献をする必要があるということであった。
 アジア特別巡回医療から帰国したわずか2週間後の1980年秋に、 イギリス留学に飛び立った。 およそ16カ月間のヨーロッパ留学で得られた外国観は、 アジア巡回検診の旅で感じたことと同じ、 日本人がアジア以外の場所で生きることは大変難しいという印象であった。
 昨年来、 韓国ドラマ 「冬のソナタ」 を始め、 幾つかの韓国TVドラマを見るようになり、 韓国の現状と日本と韓国間の歴史について詳しく知りたいと思うようになった。 実は、 私はかつて1977年8月に2泊3日でソウルに出掛けたことがある。 この旅のきっかけは、 当時、 新聞紙上に韓国が財閥を中心に経済復興を果たし、 韓国脅威論とまではいかないまでも、 日本を追従し始めたという記事がたびたび掲載され、 経済復興の状態を自分の目で見たいという気持ちが高まったからである。 しかし、 旅行の印象は、 2度と来たくない国という強い思いが残った。 何故なら、 その当時の韓国は、 朴正煕 (パクジュンヒ) が大統領として君臨し、 軍事独裁による言論弾圧が厳しい暗い時代であったからである。
 朴正煕は、 1961年5月16日軍事クーデターを起こし政権奪取し、 軍事政権を楯に経済開発独裁を強行して、 韓国経済を先進国の仲間入りする基礎を作った人物であるが、 光と闇が絡み合った業績の中でも、 1964年ベトナム戦争への参加を決定し、 その結果、 ベトナム特需を生みだし、 さらに、 1965年12月18日には日韓国交正常化を成し遂げ、 無償3億ドル、 有償2億ドル (1,800億円、 360円換算) の対日請求権資金を得た。 その一方で、 1973年8月8日金大中拉致事件を指揮し、 1979年10月26日に大統領府・青瓦台 (チョンワデ) において腹心に射殺された。 彼の政権下の経済的発展は、 数字にも現れ18年間で、 国民一人当たり所得が80ドルから1,200ドルに増加したが、 独裁色が強かったため歴代大統領の中でも大変評価の分かれる大統領であった。
 初めて韓国を訪れてから、 2004年の韓流ブームが起こるまで4分の1世紀以上の時が経過した。 そして2004年9月に訪れた2回目のソウルは、 以前の面影など全く見当たらない、 まさに初めて訪れた町であり、 これが 「冬のソナタ」 の舞台となった町かと興味は尽きなかった。
 ソウルの町を走っている車のほとんどは韓国製で、 東京や大阪で見かけるほど輸入車 (日本車も含め) の数は多くない。 2003年の年間自動車生産台数は、 フランスに次いで世界第5位であり、 つい最近、 現代 (ヒュンダイ) 自動車がメーカー別生産台数で日産自動車を追い越して世界第7位となった。 また一方、 ITの世界でもSAMSUNG (サムソン) が元気で、 液晶パネルの生産は世界一であり、 最近、 SAMSUNGとSONYがジョイント・ベンチャー設立契約を結び、 世界最大の液晶パネル工場を韓国忠清南道湯井 (タンジョン) に完成させたという記事は目に新しい。 さらにハードの世界のみならずソフトの世界でも、 1998年に金大中大統領が 「知的基盤社会」 の構築を宣言し、 それに続けて 「サイバー韓国21」 「e韓国」 とIT化政策を次々に打ち出し、 文化振興事業に国家予算の1.0%を当てること実行した。 その結果、 ブロード・バンド普及率は世界1位であり、 デジタル・コンテンツの作品の量・質とも日本を超えているところもあるとされる。 しかし、 自動車にしろ映像にしろ、 韓国国内のマーケット規模が小さいことが韓国の最大の障壁となっている。
 韓国人口は4,704万人、 韓国の国土の面積は9,9274平方kmである。 それに対して、 日本の人口は12,700万人、 国土面積377,887平方kmであり、 滋賀県と三重県から以西、 沖縄までの西日本の人口4992万人とほぼ同じである。 一方、 同地域の面積は132,815平方kmと明らかに韓国より大きいため、 そこから四国4県と沖縄を除いた残りの西日本の面積と韓国とがほぼ同じになる。 経済戦争という観点から考えれば、 韓国は、 西日本全体がオール・ジャパンに立ち向かうという構図と捉えることも出来る。
 しかし、 長い日韓両国の歴史を考えると、 良好な関係の期間のほうが不幸な期間よりもはるかに長かったわけで、 人種のルーツも同じで、 社会習慣や価値観も近い韓国の目覚ましい発展は、 戦後60年間、 世界を相手にアジアで孤軍奮闘してきた日本にとって、 ライバルではなく、 強力な援軍となる可能性がある。
 日本はユーラシア大陸の東端に位置する国であり、 太平洋の彼方の米国は地理的に遠い国である。 21世紀は、 人口の多い中国とインドの時代、 すなわちアジアを中心にしたユーラシア大陸の時代と言われている。 そのためにも、 今まで以上に西の隣国である韓国、 中国との友好関係を安定させ、 さらに発展させるための努力を惜しむべきではないし、 隣人からの抗議を内政干渉と反論する前に、 もう一度、 歴史事実を深く紐解いて認識し、 これからも長く付き合わなければならない隣人の嫌がることを再考する必要があると考える。
(医療法人 宮武内科院長)
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